その言い方!申し訳ないと伝わっていますか?ー謝罪のことば

はじめに

この記事は、テレビのニュースなどでよく放映される、政治家や役所による謝罪会見や釈明会見で耳にすることばのうち、つかい方に気をつけたほうがよいものについて解説する記事です。

謝罪会見や釈明会見については、大別して、政治家(国会議員・地方議員や首長)が自らの発言や行動に関して開く場合と、大臣、首長や役所の幹部職員が組織としての行為や事件・事故等について、その責任者として開く場合があります。

本稿は、いずれの場合も対象として、こうした会見の場でつかわれることばの中から、何を言っているのかわからない、謝罪の意図が伝わらない、逆効果であると感じられるようなことばを紹介するものです。

謝罪(釈明)会見の実際

大臣や国会議員、知事や市町村長など「公職」に就いている人々の「謝罪」や「釈明」に加え、国や自治体での責任者による会見も含めれば、毎日、全国どこかではこうした会見が行われているでしょう。

民間の会社でも、マスコミに報道されるような不祥事やミスを発生させた場合には、社長やそれに準ずる人が会見をしています。
謝罪の仕方を教えるというビジネスについて、大企業からの引き合いもかなりあるという話です。

筆者も何度か謝罪の記者会見の場に臨んだことがあります。
事件の大きさにもよりますが、ある事件では、知事が謝罪の言葉を述べて、横に並んだ関係者一同が頭を下げと、その瞬間を待っていた報道機関の何十というフラッシュが一斉に炊かれ、会議室の中が宝塚の舞台かと思うほど明るくなりました。

頭を下げることは重要で、ニュース番組や翌日の新聞では必ずこの「絵」が使われます。ですので、何回かのシャッターチャンスを確保するのに十分なくらいの時間は頭を下げ続けている必要があります。
謝罪の気持ちを他人に伝えるには、ほんとうに申し訳ないと思うことに加えて、こうした「形」も必要です。

さて、それはさて置き、こうした場でよくつかわれる謝罪や弁解の言葉をいくつか取り上げてみましょう。

報告がなかった、聞いていなかった

事実関係をはっきりさせる意味で、会見をしている責任者が問題となっていることについて知っていたのか、知らなかったのかということを正直に話すのは大切です。

ただし、この言葉をつかうときには、知らなかったから責任が軽くなると考えているのではないということが伝わるようにしなければいけません。

例えば、「その事実の報告は受けていなかったが、そもそもそうした重要な事項が速やかに報告されないことが問題と考えており、反省するとともに体制を整備したい」などですね。

責任者だから会見に臨んでいるということは常に意識しなければ。

誤解を招きかねない発言だった

一般に「かねない」というのは、「しないとはいえない、しそうだ」という意味で、通常は悪い方へころぶおそれがあるときにつかいます。

日本語には(ほかの言語もそうだと思いますが)レトリック、修辞があるので、一見逆なことを言っているような場合にでも、きちんと前後を読んだり、聞いたりすれば、そうでないといったことばや文脈があります。
そのような場合で、表現の限界に近い場合には、もしかしたら「誤解を招きかねない」発言と解釈される余地があるものもあると思われます。

ただし、そういう文脈もなければ、例えば「〇〇は人間のくず」だというような一方的な罵倒や人格の全面否定は、発言者がそう思っている通りのことを表現し、それを聞き手がそのように聞いたのだから、「誤解」ではありませんね。

そういう場合には、「わたくしの発言は全くの誤りだった」と撤回の上、平に詫びるのがよいのではないでしょうか。
人々は発言者のことをそういう人だとわかったのだから、これ以上往生際を悪くしても仕方ないですね。

「そういうつもりじゃなかった」と開き直る例も目にしますが、内心や内に秘めた感情は、ことばを通じてしか他人に伝わりません。

誤解を招いたとしたらお詫びする

これは、前の例のバリエーションで、どうも最近耳にすることが多くなったような気がします。
この発言を聞いて、発言者が「詫びている」と感じる人は千人のうち一人もいないのではないでしょうか。

前の例では、誤解を招きかねない発言をしたことについて、自らの不注意や気配りのなさを反省し、その部分について謝罪はしています。
しかし、本例では、その発言が誤解を与えるものではないと自分は思っているが、いろいろな人がいるから、誤解をする人もいるかもしれない。そういう人に対しては、一応謝ります。誤解をするような理解力のない人にもわかるような発言をしない自分が悪いのだから、と言っているかのようです。

結局、この言い方は、自らの正当性を主張しているのにすぎず、「謝罪」のことばとしては最低ですね。謝るのがくやしくても、せいぜい前の例にしてほしいと思います。

遺憾である

この言葉を広辞苑で引くと「思い通りにいかず心残りなこと。残念、気の毒▽公的な場で、釈明や不満の意を表すときにも用いる」とあります。

例えば、外国で日本人に対して不法な行いがされたとか、自らの所管の許認可法人が不祥事を起こしたとか、そういうときに記者から質問を受けて、「遺憾であります」というのがこの言葉の正しいつかい方です。

それが現在では、自らの不祥事に対して「謝罪」の意味でつかっている場合があるのではないかと思われます。
一応、広辞苑でも「釈明」の際に用いるとありますが、本来は、起こったことに対して「残念」だと「気の毒」だと表現することばなので、謝罪会見でこのことばを耳にすると、他人事のように聞こえます。

どうしてそういう言葉がはやるのか

どうして、このような言葉ははやるようになったのでしょうか。それは、責任をとる、責任の所在を明確にするということを避けるようになったからではないかと思います。自分の発言に責任を持つという自覚があれば、そんなにいい加減なことを言えないはずです。

「この発言の責任をとって辞職されるお考えは」という質問に対しては、「職務に一生懸命精進し職責を全うすることが責任をとることだと考えます」というような、紋切型のやりとりの場面がテレビによく映ります。

「責任をとる」というのは、自らのよくない行為に対して自らの不利益を甘受することであって、「責任を果たす」こととは全く違います。何の対策も取らず、また、何の咎めもなく、昨日と変わらない待遇で明日も過ごすことになれば「責任をとった」ことにならないですね。

このような例の積み重ねが、よくわからない「謝罪」の仕方をはびこらせているではないでしょうか。

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